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戦間期のヨーロッパを特徴づけるヴェルサイユ体制の構築

  • 第一次世界大戦の結果4つの帝国が倒れるなど欧州の国際情勢は一変し、アメリカ合衆国が力を持つようになった。
  • アメリカのウィルソン大統領は平和のための「14カ条」を掲げたが、フランスやイギリスに配慮せざるを得ず、ドイツに多大な負債を負わせることになった。
  •  国際連盟を中心とする新秩序であるヴェルサイユ体制は大きな問題点をいくつか抱え、後の崩壊の原因となった。

 

年号

1919年~1920年

戦間期のヨーロッパを特徴づけるヴェルサイユ体制の構築の解説

第一次世界大戦の結果

第一次世界大戦は世界の秩序を一変させました。特にヨーロッパ世界でそれは顕著となります。オスマントルコドイツ帝国ロシア帝国オーストリア=ハンガリー帝国といった君主国4つがその政体を崩壊させられることになりました。戦勝国であるイギリス、フランス、イタリアなども疲弊し、世界を牽引する力を失って、世界の中心はヨーロッパからアメリカ合衆国へと移ります。また、戦争中宗主国に協力した植民地の発言力が増し、また宗主国が衰えたことで民族運動が活発化していき、今までと同様な植民地経営を行なうことは難しくなりました。他方、東アジアでは日本が国力をあまり疲弊しないまま戦勝国となり、発言力を増しました。

パリ講和会議における各国の立場

アメリカ合衆国は参戦の際、「戦争を終わらせるための戦争」「民主主義を守るための戦争」とすることを目的としていたこともあり、ウィルソン大統領パリ講和会議に先駆けて1918年、平和の原則として「14カ条」を発表しました。民族自決、無賠償・無併合による講和、秘密外交の禁止、国際連盟の設立が主な内容です。国際連盟の設立は従来のような勢力均衡による平和ではなく、国際的な調整機関による平和を目指したものでした。民族自決に関しては、この場合ヨーロッパ内のみをその対象としていたことには注意が必要です。

それに対しクレマンソー首相が全権を持つフランスは宿敵ドイツの国力を少しでも多く削ぐために膨大な賠償金と領土の割譲などを求めていました。また、イギリスのロイド=ジョージ首相はドイツからの賠償取り立てを選挙公約に掲げて総選挙を勝利したことから、フランスに同調する形となります。

ロシアは当事国でありながらロシア革命が進行中であり、どのように交渉の場に出てもらうかが難しいところでした。ウィルソン大統領は革命派と反革命派双方の代表をパリとは別の場所に招いて話し合いを持とうとしましたが、反革命派がこれを嫌い、頓挫しました。結局ロシアは講和会議には不参加となったのです。

ヴェルサイユ体制の成立

パリでの講和会議の結果、1919年6月戦勝国とドイツとの間にヴェルサイユ条約が結ばれます。ウィルソンの主張した理想主義的な提案は国際連盟の設立の他は結局ほぼ無視され、ドイツは周辺国に多くの領土を割譲し、海外植民地を全て失うことになったうえ、莫大な賠償金を課せられることになりました。この後、戦勝国オーストリアとは1919年9月にサン・ジェルマン条約を、ブルガリアとは同年11月にヌイイー条約を、ハンガリーとは1920年6月にトリアノン条約を、トルコとは同年8月にセーブル条約を結び、正式に戦争を終結させました。これらの条約によってつくられたヨーロッパの政治体制をヴェルサイユ体制と呼びます。

ヴェルサイユ体制は以下のような特徴を持ちました。国際連盟の成立・民族自決の精神の下、東欧での小国の乱立・ドイツへの圧迫・ソビエト政権のロシアの不在・アメリカ合衆国国際連盟不参加などです。国際連盟アメリカ合衆国不参加は孤立主義が支配的であった上院がヴェルサイユ条約への調印そのものを否決してしまったことが理由でした。国際連盟の成立以外のこれらの特徴は問題となって蓄積していき、後に第二次世界大戦勃発の火種のひとつとなっていきます。

 

参考

平凡社「世界大百科事典 第2版」

岩波書店戦間期国際政治史」