勉強に関するブログ 

勉強に関して、いろいろ書いているブログです。

超大国ペルシアに対抗したギリシア

  • イオニア反乱に対するギリシア勢力介入の報復もあって、アケメネス朝ペルシアがギリシア遠征軍を派遣するが、アテナイマラトンの戦いで敗れて撤退した。
  • ペルシアは再度侵攻するが、サラミスの海戦やプラタイアイの戦いで敗北し、遠征は失敗した。
  • ペルシア戦争を通してアテナイがギリシア内で発言力を増し、民主政を徹底するなど黄金期を築いた。

 年号

紀元前490年頃~紀元前449年

超大国ペルシアに対抗したギリシアの解説

ペルシア戦争の背景と開戦

アケメネス朝ペルシアは紀元前522年に即位したダレイオス1世のもと、全盛期を迎えていました。既に前代のカンビュセス2世時代にエジプト王国と小アジアのリディア王国を滅亡させており、更に領土を拡大すべくバルカン半島にも兵を進め、トラキアマケドニアを征服します。しかし、紀元前499年、以前はリディア王国に服していた小アジア西海岸一帯のギリシア植民地が、ペルシアの傀儡政権である僣主政から民主政への復帰を掲げて反乱を起こしました(イオニア反乱)。ギリシア本土のアテナイとエレトリアもこれを支援し、反乱は拡大しますが、紀元前494年に鎮圧されます。ギリシア勢力によるイオニア反乱への介入はペルシアを刺激することになり、ここにペルシアとギリシア勢力との戦いであるペルシア戦争が勃発しました。

紀元前490年ダレイオス1世は遠征軍をギリシアに派遣します。ペルシア軍はエレトリアを攻略したあとアテナイ攻撃を狙ってマラトンに上陸しました。これに対し、アテナイは将軍ミルティアデスらが率いる重装歩兵をもって決戦を挑み、これを撃退することに成功します。(マラトンの戦い)ダレイオス1世はなおも軍を派遣しようとしますが、エジプトで反乱が起こり、頓挫してしまいます。

ペルシア戦争(紀元前480年)

ダレイオス1世は紀元前486年に死去し、子のクセルクセス1世が跡を継ぎます。彼は父の遺志を継ぎ、さらなる大戦力をもって紀元前480年、ギリシアに侵攻しました。それに対してギリシア側はアテナイとスパルタが中心となり、都市国家が連合して立ち向かうことになります。ギリシア陸軍を率いたスパルタ王レオニダスはテルモピュライでペルシア軍を迎撃しますが衆寡敵せず敗れ、同盟軍を逃がすためにスパルタ軍は全滅しました(テルモピュライの戦い)。ペルシア軍はギリシア各都市を攻略しながら進撃を続け、アテナイに迫ります。これに対しアテナイテミストクレスの指導のもと女性と子ども及び非戦闘員を非難させ、全戦闘員を海軍としてサラミス湾でペルシア艦隊に決戦を挑んでこれを壊滅させました(サラミスの海戦)。アテナイ海軍勝利の背景にはテミストクレスによる対ペルシア戦を見越して数年前から実施していた海軍増強策があったと同時に、アテナイ海軍は全員が市民であったため、身内の非戦闘員を守ろうと極めて士気が高かったことがあげられます。敗れたペルシア軍はギリシア中央部まで撤退しました。

ペルシア戦争(紀元前479年)とその後

紀元前479年、ギリシア中央部で越冬したペルシア軍は再び侵攻を開始します。しかし、プラタイアイの戦いでギリシア連合軍に撃破され、また同じ頃海軍もミュカレ岬沖で再びアテナイに敗北するに至り、ペルシア軍はついにギリシアから退却しました。

これ以降、アテナイはギリシアの盟主としての立場を強め、黄金時代を築きます。アテナイ海軍の増強と共に市民は海軍の戦闘員として発言権を増し、民主政が徹底されていきました。また、アテナイデロス同盟を結成し、ペルシアに反転攻勢を仕掛けるようになりました。一方ペルシア側は遠征軍が敗退しただけであり、国力に大打撃を受けたわけではありませんでした。ペルシアとアテナイの戦いは散発的に続き、紀元前449年のカリアスの和約でようやく武力衝突は終結することになりました。

 

参考

平凡社「世界大百科事典 第2版」

講談社選書メチエ「ギリシア文明とはなにか」

東京書籍「図説古代ギリシア

東京創元社「新編 西洋史辞典」