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統一新羅と対立した渤海はどのような国であったか

  •  高句麗の遺民等によって建国された渤海は、日本と友好関係を築くなどして統一新羅に対抗した。
  • 多民族国家である渤海は多様な生産物を有し、唐・日本・西域諸国と盛んに交易を行なった。
  •  渤海では仏教が重んじられ、また唐文化の影響を強く受けて漢文学儒教思想も受容されていた。

年号

698年~925年

統一新羅と対立した渤海はどのような国であったかの解説

渤海の誕生と滅亡

渤海を朝鮮の歴史のうちにいれるかどうかは難しいところではありますが、朝鮮半島の一部を領土としていたこと、同時代の朝鮮の国際関係を語る上で無視できないことからここでは朝鮮の歴史として解説します。698年大祚栄(テチョヨン)が高句麗の遺民を率いて現在の吉林省敦化を拠点として震(チン)国を建国、713年には唐から大祚栄渤海郡王の称号が与えられたことから国名も渤海と称するようになりました。渤海は周辺異民族の併合につとめ、勢力を拡大していきましたが、それに懸念を感じた唐や新羅等と緊張状態に入ります。国際的孤立を避けるため、渤海は日本と友好関係を結び、多数の使節がお互いに派遣されるに至りました。この関係は渤海の滅亡まで続きます。8世紀中頃には唐との関係も改善、外交的安定を手に入れました。

内政面では唐の制度を取り入れた律令制を9世紀前半の宣(ソン)王の時代に確立させ、中央から地方まで支配の強化が行われました。しかし、10世紀頃から唐の滅亡等の影響で支配者層の間で内紛が発生し、中央の力が衰えると地方の諸部族が独自の動きを始め、国力が低下します。契丹族耶律阿保機は916年に遼を建国して渤海と対立していましたが、渤海の力の衰えを見て925年に出兵、同年のうちに滅亡させてしまいました。

渤海の社会

渤海は複雑な民族構成の上に成り立っていましたが、8世紀前半の周辺諸国との緊張状態の中、諸部族の統合が進みます。この過程で都を中京顕徳府へ、さらに北部の上京龍泉府に移し、ここを最も長い期間王都としました。この王都を拠点に渤海は唐にならった中央集権的な官僚制度を整備していきます。

渤海多民族国家であるがゆえに多様な生産物を有し、交易が盛んに行なわれました。唐、日本をはじめ西域諸国ともつながりがあり、ソグド人の居住跡地も発見されています。

渤海の文化

渤海文化は多様な諸部族の伝統的文化のうえに唐文化の影響をうけ、独自のものとなりました。例えば渤海高句麗以来の山城を築いて要衝をおさえていましたが、同時に唐の長安にならった都城も築いていたことがわかっています。宗教面では仏教が重んじられ、多くの寺院跡が発掘されています。漢文学儒教思想も唐から受容しました。文学も盛んであり、渤海から日本に派遣された使節の残した詩賦が日本の『菅家文集』や『文華秀麗集』に伝わっています。

 

参考

平凡社「世界大百科事典 第2版」

山川出版社朝鮮史